書店に立ち寄るために早めに仕事を切り上げて、ようやく購入できた『これからのエリック・ホッファーのために』(荒木優太著)。夕食後、読み始めて一気に巻末に達しました。
前回のエントリで購入前の本書への期待を書いたのですが、著者のTwitterでツッコまれてしまいました。安心してください、買いました。読みました。ブログのツイート、ありがとうございます。
途中までフムフムと読み進めていたが、「本自体をまだ入手できていません」のとこで、「読んでないんかーい!」てなった(どうもありがとうございます)。https://t.co/A5wNW5FACA
— 荒木優太(本が出たよ) (@arishima_takeo) 2016年3月1日
在野で研究を続ける人間への応援歌
本書は、私のような在野で研究を続ける人間への応援歌とも言える本です。細々と研究を続けることにくじけそうになった時(1週間に一度くらいは後ろ向きな気持ちになりますが)、この本を開くことになるでしょう。なので、しばらくは狭い勉強机(兼食卓)の隅に置いておきます。
16人の個性的な在野研究者の「生き方」そのものが面白いうえ、それぞれの「生き方」に基づく40の「在野研究の心得」は、全てとは言わないまでもその多くに頷けるものがあります。
博士を目指すことに意味はあるのか? 大学院に進む必要はあるのか?
読後、しばらく考えたのは「博士を目指すことに意味はあるのか?」「大学院に進む必要はあるのか?」ということです。まさに本ブログのタイトルに関わる部分。
前回のエントリでも書きましたが、私は、大学教員でもなく研究機関にも所属していない自分に対して強いコンプレックスを持っています。自分では研究をしているつもりでも、対外的に「研究者」と名乗る勇気はないのです。世の中一般では、研究に関わりのない職業の人間を「研究者」と呼ばないからです。
本書を読みながら「博士を目指すこと」とは、そんな自分のコンプレックス解消のひとつの方法だと気づきました。「肩書」があれば人前で胸を張れると思っているのです。
なので、本書の「在野研究の心得その5、地位を過剰に意識するな。」(44頁)は私の心の奥底にまで鋭く突き刺さります。
「大学院への進学」は、博士への近道(?)であるうえ、若い研究者の卵(院生)との議論ができるような場に身を置きたいという願望を達成するためです。本書には、高群逸枝や原田大六のような独学に徹した人物も登場しますが、私は他者との議論を通して自分の考えをまとめていくタイプなので(研究に限らず日常の仕事でも)、日常的に研究について議論をできる環境がうらやましいのです。たまに参加する学会や研究会、複数人による調査などを除けば、面と向かって研究について誰かとコミュニケーションを取ることはありません。取る相手が身近にいません。
日常的に議論できるような場があれば、大学院に行く必要もないのかも、と思ったりもします。大学院に進まなければ、かかる費用を本の購入や調査費に充てることができるのですが……。(今大学院に進学できないのは、学費を用意できないからです)
研究者の数自体が少ない地方ではハードルが高いようにも思えますが、議論できる人を巻き込んで場を作るしかありません。
と頭の中でグダグダ考えていましたが、とりあえず論文書いて、研究を少しでも前に進めるために<あがき>ます。今の自分にできることをやります。それが本書からの諸々の投げかけに応えるものだと、今、気付きました。