40代社会人大学院生、博士を目指す。

岡山を拠点とする年齢的にも経済的にも余裕のない社会人が、少しでも研究実績を積み上げようとあがいています。

精緻な分析にカラフルな挿図『吉田初三郎の鳥瞰図を読む』(堀田典裕著)

大正から昭和初期にかけて量産された美しい鳥瞰図。中心部が強調され、周辺は魚眼レンズでのぞいたような湾曲した独特の構図で、日本各地の風景が描かれています。手がけたのは吉田初三郎という人物で、当時「大正の広重」とも呼ばれていました。

初三郎の鳥瞰図は、細部まで描き込まれたリアリティと、極端に強調する部分のあるデフォルメが混在しているのが魅力で、いくら眺めていても飽きません。

そのためか、初三郎(とその弟子たち)の鳥瞰図は、年々人気が高くなってきており、各地の博物館での展示も定期的に開催され、印刷物は古書店の店頭でも見かけます。

 

先日から仕事の合間に読んでいたのが、その初三郎について書かれた『吉田初三郎の鳥瞰図を読む』(堀田典裕著)です。表紙を一見して想像できるように、初三郎の鳥瞰図が可能な限りカラーで掲載されており、パラパラめくって挿図を追いかけるだけでも十分に楽しめます。

ただ、この本の軸はあくまでも著者による初三郎の鳥瞰図の分析です。著者は「おわりに」でこう述べています。

一般的に、初三郎の鳥瞰図を目にした者の多くは、そのこに何が描かれているのかということを話題とする場合が多いが、本書がめざしたのは、そこに何が描かれているかという鑑賞者としての論理ではなく、対象をどのように描こうとしたのかという制作者としての論理を読み解こうとするのもである。

本書は吉田初三郎という希代の鳥瞰図絵師の仕事を、個別の作品紹介としてではなく、都市・建築・美術・デザインの歴史を横断するまなざしによって俯瞰できるように心がけた。「田園」と「都市」の間を「旅行」する身体のまなざしは、「大胆なデフォルメ」の指示する内容の一部を明らかにできたように思う。

 

見た目のカラフルさから受ける装幀の印象とは異なり、精緻な分析からアプローチされる同時代の風景観、都市観などは読み応えがあります。丹念に読んでいくと、二晩かかってしまいました。

吉田初三郎の鳥瞰図を個別にしか見ていなかった私にとって、鳥瞰図の描かれた背景まで「俯瞰」することを手助けしてくれた本です。鳥瞰図を見る際には、併せて読むことをおすすめします。

社会実験である地域アートには検証が必要では?『地域アート』(藤田直哉編著)

今朝起きて、ネットに繋いでみるとかなり話題になっていたこの記事。記事を読んで今日のミッションが決まりました。仕事帰りに書店に立ち寄ることです。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

先月刊行された『地域アート 美学/制度/日本』は、私も仕事で関わったことのある方(ほんの少しだけですが)が執筆しているので気にはなっていた本です。記事を読んで今すぐに手に取らないといけない衝動にかられたのです。

 

冒頭で以下のように本を紹介した後、編著者の方へのインタビューが綴られています。

 『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)が、アート関連本としては異例の反響を呼んでいる。発売即重版が決まり、Twitter上やトークイベントを通じて発売前から現在に至るまで、多数のアート関係者や研究者を巻きこんだ議論が継続中だ。
「地域アート」とは、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭をはじめとする、地域密着型のアートプロジェクトのことである。「地方創生」が叫ばれる昨今、ますますさかんになってきているのだが――この本は必ずしも地域アートを称賛する本ではない。

インタビュアーの方の視点も鋭いためか記事全体のエッジが立っていて、単なる本の紹介に留まらず、読者に深く自然と考えさせるのではないでしょうか。

 

「プライド」を満たすための競争

以下、少し引用します。

地方は中央の文化や経済に憧れがあり、中央は地方のその願望を利用し搾取することによって、互いに依存する関係になっています。地域アートで言えば、「芸術」というかたちで、芸大の偉い先生や有名な作家が地元に来てくれることで地方公務員や政治家、地元在住のアーティストのプライドは満たされ、地域に多少なりともお金も落ちる。他方で、中央の側の作家などは東京でスタッフを雇っていたら金銭的にペイしないような大規模プロジェクトを、地域からボランティアを吸い上げることで成し遂げられ、実績づくりにもなる。

瀬戸内国際芸術祭が身近で開催されている地方の立場からすれば、すべてではないにしても、かなり当たっています。一部の「地方公務員や政治家」による「プライド」を満たすための競争は年々加速しているように思います。当初は見向きもしなかったのに、いつの間にか「業績」を自慢する人たちが増えているのです。残念ながら。

 

地方で進められる社会実験

衰退期の日本の地方における、壮大な社会実験ですよね。少子高齢化や低成長そのものは、日本だけで起きているわけではないので、この未曾有の成果そのものは、割と世界史に貢献しうるものなのではないかと思います。

各地で展開する「地域アート」は、 まさに「社会実験」だと思います。ただ、衰退(ある価値観では)というか未経験の社会変化が目前に迫っている地方にとっては明快な対処法が見当たらない以上、実験をするしかないのです。その意味で私は「地域アート」に一定の意義はあると考えます。

また、地方創生の名のもと、バラマキだとか無意味だとかの批判を浴びながらも、実験は様々な形で試みられています。例えば、期間限定で都市部から移住して課題解決に取り組む地域おこし協力隊なども同様の実験と言えるでしょう。

 

偽りの「成功」は弊害にしかならない

問題は実験の検証がなされないことです。特に行政が関われば(関わる案件がほとんどですが)、表向きは美辞麗句を並べた「成功」になってしまいがちです。その実験結果は「捏造」です。それでは失敗に終わった実験も、次に繋がることはありません。

さらに、失敗が「成功」として流布される弊害も大きいでしょう。「成功」とされた実験は良好なお手本として他地域でトレースされてしまうからです。ゆるキャラの乱立はその最たるケースと言えます。(そもそも他地域の事例をトレースすること自体が間違いなような気がしますが)

 

複数の立場、視点からの検証が必要

一方で、地域アートに代表される地域で進められている各種の実験は、何をもって「成功」と判断するのかは簡単ではありません。経済効果?費用対効果?交流人口?ブランディング

目的や目標の設定があいまい(どうとでも取れる)なケースも見受けられるうえ、想定外の成果が得られることもあり、それらを抱え込んだ実験の検証はいよいよ難しくなります。

なので、一つの実験に対して、様々な立場、視点からの検証が必要なのではないでしょうか。実験のデータは可能な限りオープンにしていただいて。

 

批判トーンのエントリになってしまいましたが、瀬戸内国際芸術祭は「成功」であって欲しいと願っています。

12島の扉を楽しむ『瀬戸内国際芸術祭2016公式ガイドブック』

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3月20日から始まる瀬戸内国際芸術祭2016。香川と岡山の12島が主な会場です。


私も仕事を兼ねて会場を訪れることになるため、先日発売された公式ガイドブックを買ってきました。

ガイドブックらしく、メインとなる作品や地図、飲食店情報などをギュウギュウに詰め込んでいますが、合間合間にちょっとしたコラムを挟んでいます。コラムは舞台となる島の情報なのですが、楽しむための重要な視点が含まれいて見落せません。

 

瀬戸内国際芸術祭今回で3回目。前回のガイドブックは、12の島ごとの扉に古いモノクロ写真を大きく使っていて、それだけでも資料的価値が高いものでした。今回もガイドブックを買ったのは、この扉を見たいがため、と言っても言い過ぎではありません。私的には。

さて、楽しみにしていたその扉のページを開いてみます。やはり過去のモノクロ写真を使用し、背景に現在の風景を重ねるというデザイン。モノクロ写真には、おおっ、と思わせるものもあり、自然と見入ってしまいます。

12島の導入部分である扉に、作品ではなく舞台となる場そのものを持ってくる点には、瀬戸内国際芸術祭における作品と場との関係が表われているように思えます。瀬戸内国際芸術祭の象徴が、この扉なのかもしれません。

 

作品に限らず、島の風景も場の記憶も楽しみましょう。

 

瀬戸内国際芸術祭2016を楽しむならこちらも参考に。

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宮尾登美子の小説で高知を味わう『鬼龍院花子の生涯』『櫂』

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今週のお題「好きな街」、私は高知です。

仕事の取材で定期的に行きますが、魚や野菜は安くておいしく、海、山、川と自然溢れる風景を堪能できます。また、天守を頂く高知城の周辺に広がる高知市街地は、町割りなどに城下町の面影を残していて路地散策も楽しいものです。

 

そんな高知出身の作家が宮尾登美子です。宮尾は戦前の高知を舞台にした小説をいくつか執筆しており、当時の風景を丁寧に描写しています。

 

たとえば、夏目雅子主演の同名映画で有名な『鬼龍院花子の生涯』の冒頭。

 浦戸湾の水を引いた掘割は、海岸通り、稲荷町、農人町の岸をうるおしながら高知の市街地に入り、四つ橋で分れて一方は新京橋の盛り場へ、一方は納屋堀の行きどまりに落着く。

 三方を道路にかこまれた納屋堀は満潮時には道すれすれまで水が満ち、そこにもやっている大小の漁船を高く高く、威勢よく持上げてみせる。市街地のなかに満願鰤の漁船が並ぶのは、この岸のまわりに古くからの大小の魚市場が並んでいるためで、それにもう一つ、界隈に風情を添えているものに樹齢千年といわれる樟の大樹がある。

今では高知市街地に魚市場はなく、堀も埋め立てられて船など見当たりませんが、この小説を読むと高知が海に近い河口にある街ということがよく分かります。

 

自伝的小説とされる『櫂』の最初のあたり。

 楊梅(やまもも)は、土佐の海岸地方に生る特有の果実で、思わず頬を絞るほどの美味さがある代り、これほどに傷み易いものはないといわれている。朝捥いだ実は昼下がりにもう汁が滲んで饐え始め、じき蚊つぼが立って夕方には異臭を放ちだす。出盛りの季節もまた極短いもので、ぱっといちどきに木が黒むほど熟れたかと思うと、僅かな風にもぼたぼたと首を振って落ちてしまう。

高知のやまももの有り余るみずみずしさを感じずにはいられません。めくったページから甘い香りが匂い立ってきそうなほど。

 

宮尾の小説には当時の高知の厳しい部分もかなり描かれていますが(というかそちらがメイン)、それでも上記のような箇所を読むと高知の街を歩き、新鮮な魚や果物を頬張りたくなります。

特に、やまもも。 

大学院に進む必要はあるのか?『これからのエリック・ホッファーのために』(荒木優太著)

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書店に立ち寄るために早めに仕事を切り上げて、ようやく購入できた『これからのエリック・ホッファーのために』(荒木優太著)。夕食後、読み始めて一気に巻末に達しました。

前回のエントリで購入前の本書への期待を書いたのですが、著者のTwitterでツッコまれてしまいました。安心してください、買いました。読みました。ブログのツイート、ありがとうございます。

 

在野で研究を続ける人間への応援歌 

本書は、私のような在野で研究を続ける人間への応援歌とも言える本です。細々と研究を続けることにくじけそうになった時(1週間に一度くらいは後ろ向きな気持ちになりますが)、この本を開くことになるでしょう。なので、しばらくは狭い勉強机(兼食卓)の隅に置いておきます。

 

16人の個性的な在野研究者の「生き方」そのものが面白いうえ、それぞれの「生き方」に基づく40の「在野研究の心得」は、全てとは言わないまでもその多くに頷けるものがあります。

 

博士を目指すことに意味はあるのか? 大学院に進む必要はあるのか?

読後、しばらく考えたのは「博士を目指すことに意味はあるのか?」「大学院に進む必要はあるのか?」ということです。まさに本ブログのタイトルに関わる部分。

前回のエントリでも書きましたが、私は、大学教員でもなく研究機関にも所属していない自分に対して強いコンプレックスを持っています。自分では研究をしているつもりでも、対外的に「研究者」と名乗る勇気はないのです。世の中一般では、研究に関わりのない職業の人間を「研究者」と呼ばないからです。

 

本書を読みながら「博士を目指すこと」とは、そんな自分のコンプレックス解消のひとつの方法だと気づきました。「肩書」があれば人前で胸を張れると思っているのです。

なので、本書の「在野研究の心得その5、地位を過剰に意識するな。」(44頁)は私の心の奥底にまで鋭く突き刺さります。

 

「大学院への進学」は、博士への近道(?)であるうえ、若い研究者の卵(院生)との議論ができるような場に身を置きたいという願望を達成するためです。本書には、高群逸枝や原田大六のような独学に徹した人物も登場しますが、私は他者との議論を通して自分の考えをまとめていくタイプなので(研究に限らず日常の仕事でも)、日常的に研究について議論をできる環境がうらやましいのです。たまに参加する学会や研究会、複数人による調査などを除けば、面と向かって研究について誰かとコミュニケーションを取ることはありません。取る相手が身近にいません。

日常的に議論できるような場があれば、大学院に行く必要もないのかも、と思ったりもします。大学院に進まなければ、かかる費用を本の購入や調査費に充てることができるのですが……。(今大学院に進学できないのは、学費を用意できないからです)

研究者の数自体が少ない地方ではハードルが高いようにも思えますが、議論できる人を巻き込んで場を作るしかありません。

 

と頭の中でグダグダ考えていましたが、とりあえず論文書いて、研究を少しでも前に進めるために<あがき>ます。今の自分にできることをやります。それが本書からの諸々の投げかけに応えるものだと、今、気付きました。

 

 

在野研究者への後押し『これからのエリック・ホッファーのために』(荒木優太著)

知人にとある本をすすめてもらいました。『これからのエリック・ホッファーのために―在野研究者の生と心得』(荒木優太著)です。

在野にいながらも実績を残した研究者16人を紹介する本で、著者のサイトに目次が掲載されています。

16人のうち半数近くの人の本や論文は読んだことがあり、正直なところ成果としては微妙な人もいなくはありませんが、それでも名を残していることには間違いありません。そもそも生き方に興味を惹かれるものがあります。

www.en-soph.org

 

本には40に及ぶ「在野研究の心得」が掲載されているとのことですが、サイトに項目だけ列挙されています。

 

たとえば「地位を過剰に意識するな」「コンプレックスを克服せよ」あたりは、私が常々抱えている劣等感に訴えかけてきます。

世間で「研究者」と言えば、大学や研究機関に所属している人を指します。私のように、研究外の仕事に就きながらプライベートで研究に関わる人間を「研究者」とは呼ばないのです。科研費や民間企業の研究助成(研究資金の幾ばくかを出してくれる)の対象も「研究者」に限られるのがほとんどです。つまり、自費でしか研究できない立場の人間は「研究者」とはみなされていないのです。

なので、ささやかながらも論文を書いたり学会で発表したりしても、私は「研究者」と名乗ることに後ろめたさを常に感じているのです。というか、大学の先生を前にして自身のことを「研究者」などとは口が裂けても言えません。

 

論文博士を目指そう」「研究は細く長く続けること」などは、時間がかかっても研究を続けることが大事、と思わせてくれます。

 

最後の「この世界には、いくつもの<あがき>方があるじゃないか」は、なんとか水面に顔だけでも出そうとあがいている私の今の境遇を察してもらっているかのようです。

 

「在野研究の心得」の項目を読んだだけで救われた気になっていますが、本自体をまだ入手できていません。「ことの詳細は実物をめくるべし!」とあるので、実物をめくるのが待ち遠しいです。

 

2016年3月3日追記

読後のエントリです。

knada.hatenablog.com

 

 

装幀も美しい『絵はがきの別府』(松田法子著)

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今日は休日だったので、なかなか進まない論文を書きつつ、その合間に休憩がてら読んでいたのが『絵はがきの別府』(松田法子著、古城俊秀監修)という本です。

 

別府の近代史を理解できる

数万枚に及ぶ個人コレクションの絵はがきを基に近代の別府を概観するという構成になっていますが、緻密な作業の裏付けを推測させる文章のうえ、しっかりと参考文献も示されており、内容は選書レベルです。

著者の松田法子氏は、「おわりに」で以下のように述べています。

写真絵はがきに切り取られた群像と、文献史料や地図史料などから再構成される別府とが同じ輪郭を描くことは、決してない。そこからは、絵はがきに写されたものと写されなかったものとが、図と地のようにして浮かんでくる。写真絵はがきと文献史料はどちらも、史資料としての可能性と限界の双方を持ち合わせている。それぞれが描き出す〈別府〉の姿のズレにこそ、写真絵はがきが切り出す都市のかたちの特徴がみえてくるだろう。

資料の可能性と限界を明示しているところに著者の真摯な態度をうかがえます。そのために、信頼を置きながら読み進めていくことができるのでしょう。

本書は、別府の近代史を十分理解することができる良書だと思います。郷土史的な本よりも内容は濃いのではないでしょうか。

 

とはいえ、モノクロの絵はがきをパラパラと眺めているだけでも楽しく、観光地の風景の数々に別府への旅情をかきたてられること必至です。

 

美しい装幀

さらに本書は装幀が美しいのです。セピア色の絵はがきを重ね合わせた表紙、厚みはあるけれども軽めの紙質、天・地・小口に塗られた鮮やかなイエロー。こんな本を作りたいです。(作れませんが)

膨大な枚数の絵はがきの撮影は大変だったと推測されますが、1枚1枚、絵はがきの厚さと若干の影を含めてトリミングされています。この工程を経ることで表現される絵はがきらしさ。細部まで行き届いたデザインにうならされます。

 

本を手にすることが好きな方は、本棚に常備しておきたい1冊です。