40代社会人大学院生、博士を目指す。

岡山を拠点とする年齢的にも経済的にも余裕のない社会人が、少しでも研究実績を積み上げようとあがいています。

子ども版ライフハック本。自分が子どもの頃に読みたかった。『時間の使い方』(旺文社)

今週のお題「プレゼントしたい本」というか、最近子どもにプレゼントした本です。その本とは、春から結構話題になっている「学校では教えてくれない大切なこと」シリーズの『時間の使い方』。

 

高学年になった子どもは、帰宅時間も遅くなり、平日に家で過ごす時間は少なくなっています。一緒に住んでいないので細かなことまでは分かりませんが、好きな本もなかなか読めず、宿題をこなすのにも苦労しているように見受けらます。

 

家での過ごし方について何かアドバイスをしてやりたい、と思っていたところ、以前、書店で手に取って私自信が興味を惹かれた『時間の使い方』を思い出しました。

本書には、「現状での時間の使い方を書き出してみる」「一日のスケジュールを書いてみる」「優先順位の高いものから手をつける」「頭が働く時間帯」といったことがマンガで述べてあります。大人でいうところのライフハック系の内容です。

また、現在の小学生(確か6年生)の時間の使い方平均、といったデータも掲載されていて、見えない誰かと比較できるようになっています。(1日の平均読書時間が5分か6分だったのには驚きましたが……)

私が子どもの頃にこんな本を読みたかったです。時間の使い方なんて誰も教えてくれませんでした。

 

本書を手渡された子どもは笑いながら読み進めていました。ギャグ系のマンガというのが小学生にはちょうどいいようです。読み終えると、子どもは指を折りながら自分の時間の使い方を確認していました。

そして私は時間の有限性を踏まえたうえで、子どもの頃に費やした時間と内容が大人の土台を作ると説きました。子どもには私のような失敗や後悔をして欲しくないという親心からです。100分の1も伝わっていないと思いますが……。

京都をよく知る人こそ引き込まれる『京都の凸凹を歩く』(梅林秀行著)

ブラタモリに何度も出演する著者が、地形に残る過去の京都を読み解くのが『京都の凹凸を歩く―高低差に隠された古都の秘密』です。祇園御土居巨椋池など7か所が地図や写真を交えて紹介されていますが、地域のチョイスが絶妙で、京都をよく知っている人こそ新しい発見があるように思います。このあたりは京都の出版社だからかもしれません。

地形の高低差は、よほどはっきりしないと写真では伝わりにくいものです。そこをフォローするのがカシミール3Dなどで製作した立体的な地図に加えて、近世地誌、絵図、小写真といった資料です。歴史的資料の豊富な地域ならでは、でしょう。

 

 

現在の地形から過去を読み解くのは、地理学や地質学のみならず、考古学、歴史学民俗学社会学といった分野でも用いられる方法です。もちろん、分野により対象となる時間は異なりますが。かくいう私も、フィールドワークを重ねるうちに知らず知らずのうちに同様の手法を身に付け、研究に活かす場合もあります。なので、積み重なった過去が結果として現在の地形や地図となっている、という視点は私にとって目新しいものではありませんでした。

 

ところが、以前、梅田の紀伊国屋で平積みになっていた『アースダイバー』(中沢新一著)を何気なくめくった際に驚きました。『アースダイバー』は、現在の東京の地形(特に深い谷が目立つ都心)に過去の東京の姿を見出すことを出発点とし、それを中沢節で解釈するというものです。自分にとっては「日常の」見方が本になっているのです。

私の周囲の人たち(研究者ではない人たち)は、この本が斬新であると高く評価していました。彼ら彼女らに、東京に限らず、どこでも同じような視点で見ることができる、と歩きながら解説すると、たいそう驚き、周囲の景観に興味を持ってもらえたのをよく覚えています。

 

それから10年以上経て出版された『京都の凸凹を歩く』は、地形と資料の突き合わせもしっかりとされ、可能性は可能性として記述されている親切な内容です。この点では『アースダイバー』と次元が違います。本書のような「王道的」な本が書店に並び、売れている(私が購入したのは第3版です)現状は喜ぶべきことでしょう。ブラタモリによって地形と過去との関係が市民権を得つつあるのかもしれませんが。

行き詰まった研究者こそ読むべき『アオイホノオ』(島本和彦著)

アオイホノオ』を5巻まで買い、帰宅するなり勢いで購入巻すべてを読んでしまいました。高校卒業以後、あまり漫画を読まなくなり、コミックもほとんど買ったことがないにも関わらず。なのに『アオイホノオ』を購入してまで読んだのはこれが原因です。

togetter.com

(あえて内容には触れません。このTogetterを読むと必ず『アオイホノオ』を手に取り、『シン・ゴジラ』を観に行きたくなるです)

 

島本和彦氏と言えば、私にとって『炎の転校生』の記憶しかありません。30年前の小学生にとっては、少し背伸びしなければ届かない感の作品が多かったサンデーに連載されていました。『うる星やつら』の大ファンだった近所のお兄さんの家に上がり込み、そこで読むのがサンデーであり、『炎の転校生』でした。

ただ、『アオイホノオ』については、後述の友人が折々に語っていたうえ、一昨年のドラマが話題だったので、タイトルとおおまかな内容は知っていました。しかし、実際に読んだのは今日が初めてです。

以下、ゲッサンWEBの作品紹介から引用します。

1980年代初頭。大阪にある大作家芸術大学1回生の焔燃は、「漫画家になる!」という熱い情熱と野望を胸に抱いて日々を過ごしていた。自分の実力には根拠のない自信を強く持っているが、アニメ業界にも興味があり、自分の進むべき道を模索中の焔。そんな焔は、夏休みの間際に一つの決断をする。それは、東京の出版社に持ち込みに行くこと。ますます熱くなった熱血芸大生・焔燃の七転八倒青春エレジーが再び始まる!

gekkansunday.net

(1話だけですが、サイトで読むことができます)

 

主人公・焔燃(ホノオモユル)が、周囲の才能あふれる人物や出来事に何度も打ちのめされ、それでもその現実を受け入れらず、なんとか這い上がろうとするのですが、ここに強く引きこまれます。

クリエイターと呼ばれる人たちが、このマンガを賞賛するのはよく分かる気がします。友人のイラストレーター(大阪芸術大学卒)はこの漫画をバイブルとして移住先のフランスに持って行きました。

 

現在の私は、デザイナーやカメラマン、イラストレーターといった方々と一緒に仕事をする機会に恵まれ、友人関係も築いています。こういったクリエイターの方々と付き合いの増えてきた10年ほど前、実は研究者も「表現者」なのでは、ということを考えるようになったのです。作品はもちろん論文や書籍。アイディアを形にして世に問う―

対象者は限定され、大半の作品は商業ベースに乗らず、評価者も内輪、という点は狭い世界での話にはなりますが。それでも、クリエイターの友人たちと話をしていて意識は共通するものがあり、また彼らから学ぶ姿勢も多々あります。いい作品に触れ、常に着想を探る等、等々。

 

持論どおりであれば『アオイホノオ』は日々論文に向かう研究者(天才と呼ばれる一部の人を除いて)にとっても共感が得られるはずです。20年近く続けてきた研究テーマに行き詰まり、今さら方向転換を図り、数年後の大学院進学を目指そうとする私にとっては特にそうです。

打ちのめされるともっともらしい言い訳をしてベッドに寝転がるモユルに向かって、「そうじゃないだろ!」と思わず叫んでしまいますが、それはそのまま今の自分に向けていることに気づきます。これで気づくのも情けないですが、気づいて熱くなった心が冷めてきたら『アオイホノオ』を読み返すことにします。

いつでもどこでも読めるKindleにすればよかったと少し後悔……。

  

市場設計に腐心してきた歴史をわかりやすく。『マーケット進化論』(横山和輝著)

Twitterで存在を知って手に取ったのが『マーケット進化論 ―経済が解き明かす日本の歴史―』です。

本書のおおまかな内容は冒頭に一文で示されています。

「鎌倉・室町時代から昭和初期まで、市場の機能を活かす市場設計を通じて、日本は経済発展を実現した。

 

内容は個別の研究成果に裏付けられていながら、歴史や経済の専門家以外でも読みやすいよう相当に工夫されています。合間に挿入される筆者のお子さんとのエピソードはよい具体例かつ、固くなりがちな内容を和らげているのではないでしょうか。

また、中世後半や近世のあたりは近年の研究成果が顕著に反映されているようにみえ、最前線の経済史を概観できるという意味でも重宝します。

 

個人的には、扱う市場(市場設計)の特性を最初に述べている箇所を読んで、本書を手元に置いておくことに決めました。歴史学の立場から市場をきっちり説明して議論を勧めることは少ないように思います。

たとえば以下の箇所は経済学からのアプローチならではでしょう。

市場経済にはメリットもデメリットもあります。メリットを活かしつつ、デメリットを最小限のものに抑えるにはどのようにすればよいのかという問題は、市場経済のもとで生活する私たちにとって、常に切実な問題です。市場のメリットを活かしつつデメリットを削減するための工夫、これを市場設計といいます。市場経済が形成されて以降、社会にとって市場設計はなくてはならない工夫なのです。

 

また、市場機能の条件について先行研究を引用しながら箇条書きで簡潔に示した箇所もそうです。

市場メカニズムについての研究で多くの業績を残した経済学者マクミラン(Jhon McMillan[1951-2007])は、市場が機能するために必要な条件として次の5つを指摘しています(McMillan2002)。

(Ⅰ)情報が円滑に流通していること

(Ⅱ)人々が約束を守ると信頼できること

(Ⅲ) 財産権が保護されていること

(Ⅳ)第三者への副作用が抑えられていること

(Ⅴ)競争が促進されていること

 本書ではこの5条件に加えて「計算能力」を軸に市場の発展メカニズムを追っていきます。

計算能力については割いた章で触れられる、明治期の小学校で複利計算を習っていた、というのは衝撃でした……。

 

余談ですが、書店で表紙カバーを見た瞬間、ニヤリとしました。表紙に採用されているのは有名な『一遍聖絵』の「福岡の市」の一場面です。扉の裏にある表紙の解説は、見落とされがちですがぜひ読んでください。筆者は最初から表紙をこの絵図のこの場面に決めていたのかもしれません。

 

それぞれの社会に適した経済のしくみがある『「その日暮らし」の人類学』(小川さやか著)

待っていた本をようやく購入、夕食後に最後まで読んでしまいました。

『「その日暮らし」の人類学』(小川さやか著)は、「Living for Today―その日その日を生きる―」をキーワードとして、経済、社会の状況をしくみを問い直す新書です。

 

以下はプロローグで述べられた著者の執筆目的です。

本書のもう一つの狙いは、Living for Today を前提として組み立てられた経済が、必ずしも現行の資本主義経済とは相いれないものではないことを示すことにある。

著者は続けます。

わたしたちが忘却しようと苦悩している「その日暮らし」を、自然とともにある豊かさとして認めたり、オルタナティブな生き方として求める研究は、たいていの場合、資本主義経済、とくに新自由主義的な市場経済へのアンチテーゼを標榜する。
しかし、こうした二項対立図式をよそに、Living for Today に立脚する経済は現在において拡大し、主流派の経済システムを脅かす、もう一つの資本主義経済として台頭している。

 

本書をTwitterで知ったのですが、TLに流れてきたタイトルを見てまず頭に浮かんだのは『石器時代の経済学』(マーシャル・サーリンズ著)でした。大学生の頃に『石器時代の経済学』を読んで狩猟採集民が一日の大半をおしゃべりなどで過ごしいても十分生活できることに衝撃を受けました*1。社会や経済を単線的な発展(乱暴な表現ですが)では語れないと感じたのです。

サーリンズが対象としたのは狩猟採集民ですが、農耕民や近代以降の社会を考えるうえでも『石器時代の経済学』の視点は頭のどこかに置いておく必要があると思っています。狩猟採集民の社会をあるべき姿だと賞賛するのではなく、ぞれぞれの社会に適したモデルがあるのでは、ということです。

そうした意味で、現代において「主流派の経済システム」でもなく、サーリンズが明らかにした社会でもない経済システムを見せてくれる本書(『「その日暮らし」の人類学』)は示唆に富んでいます。

 

*1:本書でももちろん『石器時代の経済学』には触れています。

遺構とモニュメントの関係性を考える『「戦跡」の戦後史』(福間良明著)

本書は、広島、沖縄、知覧の3か所の比較を通して「戦跡」を考えるという内容です。戦跡を「遺構」と「モニュメント」に分け、「アウラ」の概念を用いながらその相違や関係性の変化を分析しています。以下、「序章」のアウラを取り上げた箇所を引用します。

戦跡というメディアは、複製だけではなく、ときに「現物」を提示する点で、他のメディアとは異質である。

そこで思い起こされるのは、ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」をめぐる議論である。(略)

この議論を念頭に置くならば、戦跡はしばしば「現物」を展示する点で「礼拝価値=アウラ」を呼び起こすものと言える。写真集や図録に飽き足らず、現地に赴き、遺構の現物を目にしたいという欲求は、遺物や遺構のアウラに接近したいという意図に結びついている。 

とはいえ、アウラ(唯一無二の真正さ)は、遺構や遺物に本質的に結びついているのではなく、社会的に創られるものである。

 

広島の原爆ドームは、戦後しばらくは嫌悪の対象であったけれども、1960年代から遺構として保存する論調が増えてきたと述べられています。原爆ドームアウラが見出されるようになったということでしょう。

そして、原爆ドームの近くにある平和記念公園をモニュメントとして、アウラを見出される遺構と対比しながら論を進めます。

 

このあたりを読み進めながら少し立ち止まったのです。ひねくれた考えかもしれませんが、遺構ではなく、モニュメントにもアウラが見いだされる可能性があるのではないでしょうか。アウラが「社会的に創られるもの」であれば、こそです。モニュメントが実際の遺構の一部を取り込んでいると認識される(実際はされていなくても)とか、遺構を復元しているといったことがあれば、モニュメントにアウラが求められるかもしれません。また、モニュメントにアウラを付与するような言説が広がるケースもありうるでしょう。

こうした場合、遺構にはどういった意味があるのでしょう。

もちろん、実際の戦争の痕跡としての資料的な価値は存在するうえ、アウラ的な視点では創出されるモニュメントに対するアドバンテージは認めます。この点を除けば、認識側の遺構とモニュメントの境界はあやふやになってしまうのではないかと思うのです。

 

さらに、より古い時代の遺構やモニュメントでもあやふやさは同様です。

たとえば今回の熊本地震被災した熊本城跡のケースでは、天守は昭和30年代の復元です。しかしメディアは、被災直後の写真や映像を、熊本城跡が熊本城だった当時(おそらく近世)をイメージしながら伝えているように感じました。メディア側も受け取る側も復元天守アウラを見出していた可能性は十分にあります。昭和30年代ではなく、近世の、です。近世を基準にすれば、復元天守はモニュメントにあたるはずですが。

 

個性的な九州諸都市を鳥瞰図で楽しむ『美しき九州』(益田啓一郎編)

ページをめくってもめくっても色とりどりの鳥瞰図。とにかく掲載点数が多いのです。

 

先日来、「大正広重」と呼ばれた鳥瞰図絵師、吉田初三郎に関する資料を読んでいます。

knada.hatenablog.com

『美しき九州 「大正広重」吉田初三郎の世界』は、福岡を拠点に吉田初三郎研究を続ける著者が手がけた本です。北九州市立自然史・歴史博物館で開催された展覧会図録を元に資料を追加し、再編集したとのこと。

吉田初三郎に造詣が深く、収集家でもあるため、情報も鳥瞰図も充実しています。九州の鳥瞰図はほぼ網羅されているのでしょう。資料的価値の高い本です。

 

一方、鳥瞰図の掲載点数が多いため、眺めているだけでも楽しいのです。特に後半部分では、港湾都市である長崎や下関、炭鉱で栄えた直方、飯塚、温泉地の霧島、人吉といった昭和初期を中心とする九州諸都市の個性的な姿を堪能できます。

 

これらの鳥瞰図が展示されていたであろう、北九州市立自然史・歴史博物館の展覧会、観たかったです……。