40代社会人大学院生、博士を目指す。

岡山を拠点とする年齢的にも経済的にも余裕のない社会人が、少しでも研究実績を積み上げようとあがいています。

自由と不自由

以下の記事、著者翻訳への批判の反論から出発しているけれども、内容は都市や経済に広がっています。すっと読ませられた後に深く深く考えさせられます。

cruel.hatenablog.com

以下、上記リンクからの引用。

でも都市計画は、そして建築そのものは、すべて他人の行動を何らかの形で操作する行動だ。壁を作れば、それは人の動きを制限する。ドアを作れば、それは人の動きをそこに集約させる。そしてレッシグが指摘するように、それ(アーキテクチャ)はあらゆる規制制御の力中でもっとも強く、最も強引で、最も有無をいわさないものだ。

でも都市計画は、その大道芸が行われる場所をどう確保するかとか、その「こと」で集まってきた人のウンコをどうするかとか、そもそもその人々はどうやって集まってくるかとか、そういう部分の話だ。

これは、経済そのものについても言える話だ。自由放任すれば経済すべてオッケーなんてことがあり得ないのは、そろそろ明らかなはずなんだけどね。本当に自由放任すれば、独占、汚職、価格操作、ギャング活動、公害、その他あらゆる被害が出る。市場がきちんと機能するための制度がないと、自由放任では話が進まない。自由放任の旗をふる人の多くは、自分たちがいかに不自由かに気がつくだけの想像力がないだけで、あらゆる人が自分と同じお行儀良さを保ってくれると無根拠に想定してしまっているんだけど、そんなことはないのだ。  

お金/経済にしても、言語にしても、それはぼくたちを解放してくれるものであると同時に、制約するものでもある。 

不可分な関係の自由と不自由について考えてしまいます。どの程度の自由が適正なのでしょう?

 

私はジェイン・ジェイコブズの影響を受けていますが、この訳本は読んでいないので、ぜひ読みたいと思います。