40代社会人大学院生、博士を目指す。

岡山を拠点とする年齢的にも経済的にも余裕のない社会人が、少しでも研究実績を積み上げようとあがいています。

2018年 お気に入りの本3冊

2018年も12月30日になった。昨年に引き続き、今年読んだ本の中で特に気に入っている3冊を紹介したい。(自分の専門分野を除く)

 

『はじめての沖縄』(岸 政彦)

対象のモヤモヤを、モヤモヤのまま捉えようとするスタンスが岸政彦さんの魅力だと思う。 それはこの本でも同様である。タイトルで「はじめての」とうたっているが、沖縄をより深く知ろうとする人にこそ、モヤモヤが伝わるような気がする。

終章で、社会を人びとのつながりだとすることに対して「私たちは、実はつながっていないのではないか」との一文には、はっとした。 「つながり」の語を用いるにしても、それがどのレイヤーでのつながりなのか十分に自覚する必要があるのではないか。

 

ちなみに、「よりみちパン!セ」シリーズが発行所を変えて再出発したことを、この本で初めて知った。新曜社には、石川直樹さんの『いま生きているという冒険』をもう一度出して欲しい。石川さんが高校生のときに撮ったというガンジス川の写真は、『いま生きているという冒険』で文章と併せて見るべきかと。

 『倭の五王』(河内春人)

限られた史料を駆使し、通説に対して静かに理詰めで挑むスタイルに引き込まれて終盤は一気に読んでしまった。専門分野であればあるほど通説を疑うこと自体が難しいはずで、テーマ的にも高い壁をなんとかして越えようとする姿勢は文章からも十分伝わってくる。

 

そして、今年も中公新書はいい本出すな、と。

 『風景論』(港千尋

東日本大震災の場から始まり、世界の各地を巡りながら「風景」に向き合い続ける。写真家だけに、挿入される写真がいい。パラパラめぐるだけでも楽しめる。

 

冒頭に次の一文がある。

「見知らぬ土地を歩きながら、普段とは違った風光に触れるのは、人間の喜びである。」

「風景論」でありながら「風景」の登場より前に「風光」の語を用いる意図に唸らされる。

 

 

2017年 お気に入りの本3冊

2017年に読んだ本のうち、お気に入りの3冊を。

2冊は今年発行ではないうえ、1冊も文庫化された本なので「何を今さら」という声もあるかもしれないが。

 

断片的なものの社会学(岸 政彦)

タイトルからは学術書寄りにみえるが、文章はかなり読みやすい。

読みやすいが、内容は相当に深い。

読後、社会とは白黒明瞭に分けられるものではなく、曖昧な中を誰も手探りでさまよって迷っているようなものだということを強く感じた。

 

いろんな人に読んで欲しくてこの本を何人かに貸したが、数人は「手元に置いておきたい」ということで別途購入。

こんなことは初めての経験である。

 

ちなみに、立命館大学の大学院説明会で著者の岸政彦氏をお見かけして、ひとりテンションが上がってしまったのはこの本を読んだ直後だったから。 

 

椿の海の記(石牟礼道子

著者は『苦海浄土 わが水俣病』などで有名な石牟礼道子

私はこの本の存在を知らず、書店で偶然見かけてその場でパラパラとめくって即購入を決断した。

 

なにより文章が美しい。

戦前の水俣の豊かな自然や人々の営みがいきいきとありありと描かれている。

水俣病には触れられない(それ以前の時期なので当然だが)にもかかわらず、ひるがえってそれが、後に発生する水俣病メチル水銀化合物による中毒性の神経疾患)の悲惨さをより強く読者に想像させることになっている。

高校生くらいに読んでいれば、と後悔。

 

ちなみに日本窒素肥料の工場(後に水俣病の原因となる)に勤めるサラリーマンの姿も描かれている。

 

江戸の花鳥画今橋理子

絶版になっていた本が待望の文庫化。

学術書のわりに読みやすく、謎解きのような感覚で読み進められる。

絵画史の分野だが、文献も駆使しながら「博物図譜」成立の背景に迫るプロセスは思わず唸ってしまう。

元の本が出版された際に相当な反響(賛同も批判も)があったことは、専門外の人間にも容易に想像できる。 

 

内容とは別に「いいな」と思うのは、シンプルだが対象としているものを明瞭に表すタイトル。

これはクリーンヒット。

 

うしろめたさの人類学 (松村圭一郎)

一昨日購入して今年中に読めないかもしれないので、番外編という扱いで。

読み始めたばかりだが、幅広いテーマをするすると読ませてくれる。

各所で絶賛されているのは納得。(店員さんにも勧められた)

 

著者のトークイベントに行けなかったのが残念……。

 

 

(仕事の忙しさを言い訳に)前年に比べて読んだ本の冊数はかなり少ない。

2018年は、もう少しだけでも多くの冊数を、そしてより幅広い分野の本を読みたい。

これからも書く以上は定期的に読み直したい。『書くことについて』(スティーヴン・キング)

藤村シシンさんのこのツイートをTLで見た翌日の昼休み、書店で『書くことについて』を購入した。(元の本は『On Writing: 10th Anniversary Edition: memoir of the Craft』とのこと)

 

早速読んだ。スティーヴン・キングらしく、やや品のない話題も混ぜながらテンポよく内容が進む。おかげでハイスピードで読み終えることとなった。さすがである。

中盤以降は小説を書くためのスキルが中心になるが、よりおもしろいのは中盤以前の「履歴書」パートである。ここでは自身の幼少期からの来歴が語られる。

 

特に、藤村シシンさんがツイートに写真を上げている94ページの前後は、これから(これからも)文章に向き合う人は読むべき箇所だと思う。

20代の筆者がウィークディは高校で英語を教えながら小説を書くもなかなか芽が出ない時期のことを述べている。以下、一部引用する。

三十年後の自分の姿を思い描くのは簡単だった。(中略)机の引きだしには六本か七本の書きかけの原稿が入っていて、酔っているときなどに、ときどき取りだして手を入れている。余暇の過ごし方を問われたら、小説を書いていると答えるだろう。人一倍自尊心の強い作家志望の教師が、ほかに何をして暇な時間をやりすごせばいいというのか。もちろん気慰みとしりつつ、私は自分にこんなふうに言い聞かせる。時間はまだまだある。これからでも遅くはない。五十はおろか、六十を過ぎてから世に出た作家はいくらでもいる。

 

心にグサリと突き刺さった。40代となり、仕事以外の時間のうちの少しを充てて、書きかけの論文に文字を足したり引いたりしている自分のことではないか。

この歳でちまちまと研究を続けることはすでに時遅しなのだろうが、それでも引用した上記の箇所を定期的に読み返してもう少し研究にしがみついてみる。まだあきらめられない。

 

こうした本に交通事故的に出合うことができるのはSNS、特にオープン性の高いTwitterの利点のひとつだろう。Twitterを利用し始めてから、自分の主な関心領域の、もうひと周り外にある本を読むようになったのは間違いない。 

7世紀の永納山城を歩き、『夕凪の街 桜の国』を読み、くらしとごはんリクルで肉厚愛媛鯛のランチ@愛媛県西条市

7世紀に築かれた永納山城を歩く

愛媛に行く機会があったので、かねてから訪れたかった永納山城を歩いてきた。

7世紀、対馬から九州北部、瀬戸内海沿岸には朝鮮半島の技術を用いた山城(古代山城)が30基近く築かれた。築城目的は新羅・唐の侵攻への備えとされている。永納山城はそのうちのひとつである。

 

山の中腹に世田薬師という寺院があり、その近くから登山道が伸びている。新緑の木々がつくり出す影をくぐりながら山道を歩くのは気持ちいい。首筋ににじむ汗も、柔らかな風で落ちる前に乾いてしまう。この季節ならでは。

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永納山城は、山の一部を巡る城壁が確認されたことで古代山城とされた。つまり、城としての人工的な構造物を認識できるのは城壁のみということになる。

ブルーシートのかかっている箇所がその城壁にあたる。調査中なのだろうか。

城壁は尾根と尾根の間に石を積み、土を盛り上げる構造のようだ。城壁に囲まれた内側は一段下がって広場のようになっている。

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山頂が近づくと幟が見えてくる。「城(戦国期?)」のイメージだろうか。初めて登山する人間にとっては目標として分かりやすい。

山頂からは西方に瀬戸内海を見渡すことができる。奥に見えるのは香川県

冒頭の登り口から山頂までは20分ほど。軽いハイキング程度だ。

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古い遺跡の整備にこそデザイン的な視点の導入を 

永納山は風化した花崗岩のため、足元の一部は滑りやすくなっており現状では登山者を選ぶ。しかし、登山者に配慮して舗装などしてしまうのは筋違いだろう。現状が7世紀の景観と異なるとはいえ、近代的な構造物が目立ってしまえば訪れた人は興醒めしてしまうし、写真映えもしない。登山ではなく、過去の城の見学を目的とするため訪れる人は過度な整備を望まないはずだ。

サインも含めて、登山者の安全を考慮しながらどう整備するかは難しい課題だが、こうしたケースにこそデザイン的な視点が導入されるべきだろう。

 

 

くらしとごはんリクルで『夕凪の街 桜の国』を読み切る

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永納山を降りた後、空腹に我慢ができなくなって車を走らせた先は、くらしとごはんリクル。

南に設けられた大きな窓からは西日本で一番高い石鎚山(1982m)が正面に見える。

ランチは肉、魚、豆腐から選択可能。迷わず魚をオーダーする。

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料理を待つ間に本棚に向かうと、まず『この世界の片隅に』3巻に目が留まり、直後に『夕凪の街 桜の国』に気づいた。『この世界の片隅に』の作者、こうの史代氏による戦後の広島を描いた作品である。

数ページめくるとすぐに没入してしまい、ランチが到着した時には半分に到達していた。残りは食後に読み切り、さらにもう一度読んでしまった。

夕凪の街」は終戦まもない時期の広島を舞台とし、「桜の国」は現代(現在より少し前か)を描く物語で両者は深く関連する。原爆投下の場面は登場しないが、原爆の影響が現代にまで続くことを意識させる巧みな構成となっている。全体を読み終えるまでさほど時間はかからないが、おそらく誰でも一度は読み返してしまうだろう。

映画版この世界の片隅に』にのめり込んだ人は(私がそうだが)、『夕凪の街 桜の国』もぜひ手に取って欲しい。

 

肉厚の愛媛鯛、ダシの効いた味噌汁で満たされる

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夕凪の街 桜の国』を読んでいるうちに到着した料理。

まず肉厚の愛媛鯛に見た目で驚く。その厚さは箸を入れた指を通して、さらに運んだ口を通して実感される。白味噌ソースで味付けされたこの愛媛鯛だけでも、この日リクルに来た甲斐があった。

左手前の食前酒(といっても苺のコンポートに炭酸を足したもの)や、鮮やかな野菜のきんぴら(?)、自家製ドレッシングなどももちろんいい。麦味噌(愛媛ではオーソドックス)の味噌汁はダシが効いていて、こちらもかなり好み。

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 くらしとごはんリクル FBページ

 

この日の数時間で、ゴールデンウィークらしいことをすべて叶えられた気がする。

災害が強く意識される現在だからこそ広く読まれて欲しい。『地球の歴史』(鎌田浩毅著)

シンプルなタイトルのとおり、地球の歴史を上・中・下の3巻で解説する新書です。上巻は地球の誕生から、中巻は生命の出現から、下巻は超大陸の分裂と爬虫類の出現から現代、さらに未来予測までとなっています。

書店で軽く立ち読みして、下巻から購入することにしました。歴史とはいえどこからでも読み進められる構成になっている点、恐竜や人類が登場する身近な時代だと理解しやすい点を考慮したためです。

 

本書では、「長めのあとがき」から読むことを推奨します(私はどの本でもあとがきから読みますが)。数ページで地球科学という分野の特徴をのぞき見ることができます。

地球科学は自然科学の一分野だが、自然科学のなかで、これほど「再現性のない」自称を扱う分野も珍しいのではないだろうか。(pp.254-255)

 物理学の論理は、宇宙のどの場所でも、またいつの時代にも普遍的に成り立っていなければならない。これは自然科学最大の特徴で、誰が実験しても条件が揃えば同じ結論が導かれる。これに対し、地球科学では、宇宙に唯一無二の存在である地球を対象とすることで、現代物理学ではまだ説明できない現象も扱わなければならない。(p.255)

そもそも不可逆な現象を多数扱うものだから、理論の通りに進行することが少ない。言い換えれば地球科学は「例外にあふれている」という特徴を持つ。地球の歴史には思わぬ事件が多数登場するが、われわれ地球科学者は起きた現象をできるだけ正確に記述しようとする。(略)しかし、それがなぜ起きたのかという根源的な質問に答えられる場合は、実に少ない。(p.258)

こうした記述を読むと、因果関係を蓋然性の高さで説明する人文系の多くの分野では地球科学に親近感を持つのではないでしょうか。この親近感を得て本文に移ると、難しい専門用語も軽々と飛び越えて読み進められます。

 

下巻では、2億5000万年前から現代までの間、大陸が移動し続けていること、隕石衝突やたびたび起こる大規模噴火などが語られます。それらは気候を左右し、生物に大きな影響を与えます。ヒト出現以降、人間の生活を脅かすのであればそれらは「災害」と呼ばれるでしょう。

しかし、災害の前提にあるのは地球の活動です。個人や地域に降りかかってくる災害を考えるうえにあたり、マクロな視点での地球活動を知っておいてもいいように思います。地球レベルでの動向を踏まえると、各所で叫ばれている近い将来の災害(たとえば南海トラフ地震など)以外の災害の可能性も頭の片隅に置かざるを得ないし、起こるであろう災害に対してもやや冷静な目で見ることができるのではないでしょうか。

 

災害が強く意識されている今だからこそ、本書は広く読まれて欲しいと思います。

2016年 お気に入りの本 3冊

昨日の記事で言及した展覧会に引き続き、2016年に読んだお気に入りの本3冊を紹介します。一般書に限ってですが。

 

『これからのエリック・ホッファーのために』(荒木優太著)

まず、私のような会社勤めの傍ら細々と研究を続ける人間に「在野研究者」という呼び名を与えてくれたことに感謝します。

本書では16人の個性的な在野研究者の「生き方」が紹介されており、今の在野研究者への応援歌とも言える本です。日々の生活との狭間で何度も研究を辞めようと思ってしまいますが、その際にはこの本を開くことにしています。

knada.hatenablog.com

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『その日暮らしの人類学』(小川さやか著)

「Living for Today―その日その日を生きる―」をキーワードに、経済、社会の状況をしくみを問い直します。現代に存在する(そして影響力を持ちつつある)「主流派」とは異なる経済システムは、他地域だけではなく、過去の社会を考えるうえでも示唆に富みます。具体的な事例が多く読みやすい部類の新書です。

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『星々たち』(桜木紫乃著)

今年文庫化された『星々たち』。北海道の、どちらかといえば暗い風景がリアリティを持って描かれ、それがバックグラウンドとなって各編の登場人物を際立たせます。どうしようもない救われなさの深みにはまり込み、その先に何があるのかと読み進めていくと……。

直木賞受賞作品『ホテルローヤル』を読んで著者の描写に惹かれたのですが、それはもちろん健在。言葉の用い方に感嘆することしきりで、著者の紡ぐ文章をいつまでも読んでいたいのです。左手に持つ残りのページが少なくなってくると読むのが惜しくなってきます。

 

ローカルな民俗芸能からも導かれる生き生きとした中世の姿 『乱舞の中世』(沖本幸子著)

サントリー学芸賞受賞のニュースを見て知った本書。数日後、最も興味を惹かれた本書を購入して読み終えました。専門外の人間でも途中でつまづかずに読み進めることができるのは、著者の文章力のおかげでしょう。

 「白拍子」「乱拍子」といった、これまで実態が不鮮明であった点に照射して暗がりを取り去っていく論述は、とても気持ちがよく湧き出てくる好奇心を満たしてくれます。映像記録がない中世や近世の芸能を復元するのに相当な困難が伴うことは想像できますが、この点をまずは文献史料の丹念な検討により明らかにしていきます。

 

そして後半には地域に伝わる芸能も対象となって論が進みます。筆者が地域の芸能を重視していることは、「あとがき」の最後の文章で表明されています。

最後に、私がここまで研究を続けてこられたのは、さまざまな地域の芸能との出会いがあったからにほかならない。その土地その土地で長らく伝えられてきた芸能には、それぞれのすがすがしさがあり、そのすがすがしさに、いつもしみじみ心を洗われてきた。

個人的にはこのパートにのめり込みました。なぜなら、私が民俗芸能に抱いていた長年の疑問が払拭されたからです。

 

各地で伝えられているローカルな地芝居や神楽、獅子舞などの民俗芸能には、古い様相が認められるという考え方(仮説)があります。乱暴に言えば次のような構図です。

 

中央(往々にして都が置かれていた京とその周辺)で要素Aが成立。

やや遅れて要素Aが周辺に広がる。

さらに時間が経過、中央で要素Aは廃れて要素Bに置き換わるが、周辺の一部には要素Aが残っている。

この仮説に従えば、要素成立の時系列は、周辺に見られる要素A→中央にある要素B、と推測できる。

 

この考え方は、柳田國男が「蝸牛考」で提唱した周圏論(方言が中央から周辺に向かって同心円状に伝わる)に近いと言えるでしょう。

 

1年のなかで折々に出会うローカルな神楽や獅子舞を観ながら、上記の仮説は成り立つのだろうか、という疑問を常に持っていました。しかし、文献のみならず、上鴨川住吉神社の神事舞(兵庫県加東市)や黒川能(山形県鶴岡市)などの地域の芸能の観察からかつての芸能の姿を復元する筆者のプロセスは明快で、私の疑問は氷解しました。 

本書は、民俗芸能へのまなざしを変える一冊だと思います。次に出会う民俗芸能は、どのように見えるでしょうか。